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「何でも大分前からこゝの御隠居にかけ合つていたさうぢやありませんか」
「もう遅いんですよ、おぢいさん。泊つてつたらどうです」
と手早く切り上げて、堂本の家を出た。
築堤へ登る段の所で、長い竿を持ち扱ひにくがつて立停つた房一の背後から、盛子はふいに呼んだ。
人間というものは、これ以上の快適をむさぼる必要はないということを考えたりする。人生はこれぐらいのものだという嘲笑的なものではない。もっと充足し、ひたりきった楽天気分だ。なんのために生きるか、なんのために仕事をするか、なんのために入浴するか、そんなセンサクを失った充足感において、こうしていることのあたたかさ、なつかしさを感じることがある。ここに宇宙あり、と大袈裟に云っても、とりわけ変とも思わないだろう。別に詐術ではない。種と仕掛はハッキリしている。一定の温度とその持続だけのことなのである。
「ジョン、降りろ」
又とぎれた。
さう云ひすてて、大きな音を立てて下駄をひきずりながら立去つたのだ。
「相手は誰です?こゝの御隠居ですかい」
――「それでは、わしの方からお礼を云はなきあならんのです。どうぞ、よろしく願ひますわ」
「お髯がなくなりましたわ」
坐につくとすぐ固苦しい挨拶をはじめた房一に向つて、その気重い調子を払ひのけでもするやうに、老医師の正文は口早やに云つた。